猫と惰眠は至高

ノープランで始めてしまった雑多なブログ。

小論文と添削と、消化できてない感情と

文章関係の記事を読み漁っていて、

そういえば、と思い出した事があったので書いてみようと思う。

 

今だから前はそんなことがあったな~って笑って言えることだけど、

実はまだその時の感情的なものの根っこが少し残ってしまっている。

そんな感じの話。

 

もっと言うと、小論文の添削の結果一つでそんなに根に持つ??

という、何かに対して感情が強く残りがちな人間の思い出話です。

 

納得出来ていない感情が消化出来ていない

学生時代に、(外に添削を依頼するタイプの)小論文の課題があって、

そこらへんから小論文に苦手意識を持つようになった気がする。

 

自分なりに考えて書いたものに、「極論だ」と一言添えられてしまった。

もうずいぶん昔の事だから何を書いたのか内容は覚えていないけども。

ただ、その時の感情は今でもしっかり残ってしまっている。

 

今なら、その結果に多少の不満があっても、

「これ小説とか日記じゃないからね…。」なんて、

評価と感情を切り分けて納得することも出来たんだろうけど、

昔の自分はそういうことが出来なかったから、

納得できずにこうやって「根に持つ」という形で残っちゃったんだろうなぁ。

 

 

まぁ、せっかく思い出したし、今こうして何となく記事に書いているので、

それなりに自分に対する理解が進んだ今の状態で、

その「根に持った」感情が何なのかを考えてみようと思う。

当時の自分はこんな感じだったかなぁっていう想像の範囲でだけど。

 

自分が書いた文を極論だと言われてしまった事を今も根に持っているのだから、

多分自分としては「は? 何で?」ってなっているんだと思う。

そんでもって一方的に書かれるだけで、その「何で?」が解決されなかったために、

「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜????」ってなってるんだなぁ。

 

簡単にまとめると、

「理由が分からない不快感」、「一方的に書かれる不公平感」

を感じてしまって、それを消化出来なかったってところだろうか。

 

もう昔のその小論文はすでに無くしてるか処分してるので、

自分なりに添削することも出来ないから、

実際書いた文が極論だったかどうかなんて判断できないのが残念なところ。

 

いや、自分が書いた昔の文を読むとか絶対何とも言えない

いたたまれない気持ちになるのは目に見えているんだけども、

内容がどうであれ、自分で添削すれば少なくとも、納得はできると思うんだよね。

 

私はもう手元に昔の自分の書いた文がないから出来ないんだけど、

もし今、自分の手元にその小論文があるなら、

気の置けない友人にも添削をお願いしたいな。

自分で添削はするけども、他の視点でどう見えるかはちょっと気になる。

 

さて、今回はここらで終わりにしておこう。

 

スマホで打ってたら何故かものすごくスペースが出来てたので修正……